｢……くッ｣

　移植手術が済んで間もない私の左目が、酷く疼いた。組織の闇医者による手術だったが、視力が回復している所を見ると成功しているようだ。痛みに耐えきれずにうずくまると、黒く真っ直ぐに整ったショートヘアーが空調の風で踊った。

｢透(とおる)、大丈夫か？　……とりあえず、そこで少し休んどけ｣

　私は体を引きずり、曲がり角を少し過ぎた辺りで黒服の男に指示された通り座り込んだ。彼は幼馴染の蓮緒(れお)だ。

｢術後は絶対安静なのに、すまねェな。状況が色々と変わっちまったのさ｣

　蓮緒は胸ポケットからレミントン・アームズ社製の小型拳銃を取り出し、バレルを開放して弾丸を２発装填した。全長１２ｃｍ弱の、手に収まる小さな銃だ。

｢───ったく、日本じゃロクに武器も持てやしねェよ。銃に関していえば、隠し持てるのはこのデリンジャーくらいだ｣

　カチャ、と銃のバレルを閉鎖し、蓮緒は舌打ちをする。

｢……で、親父は何て？｣

　私は息を荒げながら彼に言った。
　蓮緒はそんな私を心配したのか、言葉に詰まっているようだった。

｢……あ、あぁ。《眼》が手に入ったなら、手足もげてでも帰還しろだとよ。実の娘に対して、エゲつねぇ｣

　そうか、と私は無感情に返答した。
　無論、最初から父親に期待などしていない。
　欲しているのは『私』などではなく、《力》なのだから。

「どこに行った！　早く探せ！」

　休む暇など与えないと言わんばかりに、構成員達が血まなこになって私を探す声が聞こえた。
　それもそのはずだ。私に移植されたこの眼は、組織の『力』であり《象徴》でもある。この力を得る為に、親父は私をスパイとしてこの組織に送り込んだ。そこで殺されればそれで良し、そこで匿われたら儲けもん。親父は娘である私が死のうが生きようが興味などなく、全てにおいて期待などしていない。つまりは───そういう事だ。

「立てるか？」との蓮緒の問いに私は頷いた。
　親父に必要とされていようが、いまいが、帰る場所はあそこにしかない。それ故に、自身に課せられた任務を遂行することだけに、私は重きを置いた。
　痛みを噛み殺しながら廊下を突っ切り、下へと降りる階段に差し掛かった。

「まだ見つからないのか！　早く探せ！」

　下の階のすぐ近くで、叫び声が聞こえた。
　私は危険を感じ、階段で上の階に駆け上がった。

「あンの馬鹿。上に行ったら逃げられねェだろが」

　くそッ、と言葉を吐き捨て、蓮緒は私が走った軌跡を追う。眼の影響で私の身体能力が向上しているのか、どうやら追いつけないようだった。一気に階段を駆け上がる。屋上階への入口の扉を蹴り破り、灼熱の太陽に身を晒した。
　ビルの中に隠れていても見つかるのは時間の問題であるし、多少怪我をしてでも建物を飛び移って逃げた方が捕まってしまうよりはいいだろうと判断したのだ。太陽に晒された仄青いコンクリートは心と身体を灼き、目の前に立つフェンスは不完全な鉄格子を思わせた。私はフェンスに近寄って辺りを見渡し、飛び移れそうな建物を探す。

「───この建物が高すぎて、安易に飛び移れそうな場所は見当たらないな」

　あるとすれば、怪我を覚悟で２０ｍ程高差のある右手の建物くらいだ。少し遅れて蓮緒が屋上に到着し、私が振り返ると何か言いたそうな顔をしていたが、敢えてそれを無視する事にした。
蓮緒は屋上の中心まで来て周りを見渡すと、私の意図を察したようだった。

「なるほどな。飛び移って逃げンのか」

　私が頷くと、蓮緒はため息をつく。
「そういう博打は嫌いじゃねぇが」と愚痴をこぼしたその時、風が入口に向かって一気に逆流した。それと同時に背筋が凍ったような悪寒を感じ、私は殺気を放つ方向に視線を向ける。

「鬼ごっこも───ここまでだ」

　低く冷たい男の声が、私の耳にまとわりついた。声の主の片足が蹴り破った扉を踏み潰す。外と室内の明度の差が強すぎる為か、光に晒された足以外はシルエットすら見えない。
　捕獲だとか、そんな生温い事を考えていないのは、入口の影から顔を覗かせた日本刀の反射光ですぐに理解した。恐らく『裏切り者の眼球を回収せよ』が彼への指令で、＂生死問わず＂が回収のルールなのだろう。
　入口を潜り終え、声の主の姿が露になる。夏だというのにロング丈でフード付きのトレンチコートを着ていた。返り血を浴びたようなワインレッドのトレンチコートは、殺風景な屋上の風景に絶対的な存在感を刻む。
　背丈からして、まだ成人を迎えていないくらいだろう。先程の低い声がまるで嘘のような綺麗な顔立ちの青年が、フードの下から凛とこちらを見ている。
　すぐさま、私は目を凝らして青年の両目を確認した。彼の《眼》は、覚醒者の証である『黒』と『青』のオッドアイだった。
　色が違うというよりは、青く光を放っている・・・・・・・・・の表現の方が正しいかもしれない。私に今もなお痛みを与えるこの左眼の移植は、オリジナルの覚醒者が殉職した際、身体の一部を他者に移植することによってその能力を継承する事が可能か否かの実験だった。
　もし継承が可能であるならば、殉職者の身体全ての部位を他者に移植する事により、『複数人の疑似覚醒者を生み出す事が出来る』という算段だ。
　蓮緒は青年に残心しながら、デリンジャーの銃身を右手の人差し指で支えて、左手の親指をハンマーに添えた。青年に気付かれないようハンマーを起こすと同時に、内蔵されたトリガーが姿を現し、それを右手の中指を掛けた。
　大量の汗を流しているのは肌を焦がす太陽のせいなどではない。殺傷能力が圧倒的に低いデリンジャーでは青年に対して牽制にすらならない事を、彼の放つ殺意で一瞬にして理解したからだ。
　蓮緒と青年まで約１０ｍ。不運にも屋上である事から、荒れ狂う横風で弾道が流れ、的を大きく外す可能性の方が極めて高い。接触して零距離で撃たなければ勝機など無に等しいだろう。
　青年の瞬間的な動きに対応出来るように銃を構えた両腕をだらんと降ろし、蓮緒は全身の力を抜いた。
　私と蓮緒と青年は、たったの１秒が１時間にも感じる程の凝縮された空間を共有した。
　誰かが動けば必ず１人死ぬ───そんな刹那だ。
　コンクリートの熱が肺の水分を奪う。今にも意識を失ってしまいそうな重圧感が、私と蓮緒を襲う。

「透ッ！　走れッ！」

　先手を打ったのは蓮緒だった。あろうことか臨戦態勢を解き、左手を水平にして首だけ振り返って私に指示した。
　残心を解いた隙を青年が見逃すはずもなく───水平にしていたはずの腕は肘を境に宙を舞う。切断された前腕が腰の辺りまで落ちる瞬間、青年は空中でふわりと刀身の側面であるシノギに乗せた。
　一瞬の出来事に、蓮緒の脳は情報処理が間に合わずにパニックとなる。
　刀身に乗る腕を青年は掴み、乱暴に地面に叩きつけた後に日本刀で何度も何度も斬り付けた。
　そのすぐ真横でうずくまり、蓮緒は苦痛に顔を歪ませている。

「───はは……あはははははははははは！」

　今まで表情一つ変えなかった青年が抑圧された感情を具現化し、狂気の笑みを浮かべていた。
　腕が肉片へと姿を変え、それに飽きた青年の視線は私に向けられる。

｢───迷うなッ！　走れって言ってンだよ！｣

　今まで聞いた事もないような蓮緒の声色が、私の鼓膜を激しく振動させる。決死の想いで彼は残された右腕でデリンジャーを青年に向けるも、トリガーを引く前に手首ごと切り落とされてしまった。
　噴水のように両手から吹き出す紅を映像から削除するように身体ごと振り返り、私は目的の建物と逆に向かってコンクリートを踏み込んだ。そして、ひたすら───ただ、ひたすらに走った。
　そのままフェンスを跳躍して越え、《死の鳥籠》から翔び立つ。幼馴染であり、家族でもあり、唯一の友と断末魔の叫びを遺して───。
　２０ｍ下の屋上までゆっくり時間が流れる。その間聞こえる悲鳴と笑い声が、混ざり合って空気を振動させていた。着地点に近付くにつれて、耳を擦る風の声が２人の声をフェードアウトしていく。

私はまた───人の命・・・で、生かされたのだ。

Blue Eyes