　薄いカーテンから淡い光が射し込み、外でやさしく踊る雨音が耳を撫でる。心地いい目覚めの合図に合わせて瞼(まぶた)の裏の暗幕を上げると、クレヨンで描かれたイラストが壁一面に貼られていた。
　目線を下にやれば、黒のスラックスから僕の脚が突き出ているのが見える。どうやら仕事から帰ってすぐ、リビングのソファーでそのまま寝てしまったようだ。寝返りを打つと、目線の先には床に投げ捨てたであろうビジネスバッグが横に倒れて落ちていた。

「さて───と」

　上半身を起こし、両の手を思い切り伸ばしてから首を勢いよく左右に捻ると、ゴキン、ゴキン、と気持ちのいい音が鳴った。
　人生とは、繰り返しだ。仕事に行き、それが終わって帰宅し、睡眠し、また仕事へ行く、というルーチンワーク。
　しかしその繰り返しも、天気の変化があるだけで幾分か刺激になる。だからこそ僕は晴天の翌日の雨は好きだし、雨天の翌日の晴れは好きだった。
　僕には、妻と３歳の息子が１人いる。
　息子も天気に対しての考え方は僕に似ている。
「きょうは、あめだね！」「きょうは、はれだね！」と、まるで日々の変化を楽しんでいるように見えた。
　ちなみに、クレヨンで描かれたイラストは息子が描いたものだ。電車、車、ロボット、そして──２人の笑顔の描かれたイラスト。『パパとママ』を描いたものとばかり思っていたのだが、息子いわく『ぼくと、まま』らしい。
　息子が描いた２人のイラストは、僕の視点で妻と息子を捉えているようにも見えた。叱ることの方が多かったが、それでもたった１人の息子だからこそ愛していた。
　ふと掛け時計を見ると短針はちょうど真下を指し、６度の鐘を鳴らした。
　我が家の起床時間は６時だ。朝食は家族全員でとる決まりで、息子を保育園に送ってから仕事に向かう。
　リビングの掛け時計の鐘が鳴り終わってしばらくしても、アラームをつけ忘れたのか、目覚まし時計の音はいまだに寝室から聞こえてこない。

「……よし、そろそろ起こしに行くか」

　ちなみに、自宅にはホームエレベーターが設置してある。自身の老後や、両親の介護で一緒に住むことを考えて戸建てを購入する際に取り付けたものだ。
　基本的にスーツケースのように重い荷物を２階に持っていく時以外は使うことは滅多にない。
　話が逸れるが、家族でどこかに出かける時は電車をよく利用する。その際は階段ではなくエレベーターをよく使う。最寄り駅は人混みが激しく、息子が誤って階段から転倒するのを防ぐためだ。駅でのエレベーターの使い方を見て覚えたのか、目を離すと自宅のエレベーターで上がったり下がったりして遊んでいる。
「１人で乗って手が挟まったら危ないだろ！」と何度目くじらを立てて怒ったかわからない。もちろん、多くのことに興味が出てくるのはいいことなのだが。
　寝室は２階だ。寝室に行くために、階段につながる廊下に出ようと歩き始めた。
　すると、いままで嗅いだことがないような異臭が鼻を突き抜けた。無意識に僕の右手が鼻をつまんでそれを遮る。

「───ッ。ひどいな、これは」

　どうやら、異臭の元はキッチンからのようだ。リビングの出口の真横にキッチンがあり、そこでそれに気付いたからだ。
　恐る恐る、僕はシンクの中を覗いた。

「……あぁ、これ。早く捨てなきゃ」

　思い出した。近くのスーパーで購入した切り落としの豚肉だ。いざ調理しようと封を開けて冷凍庫から取り出すと、ものすごい量の骨が混入されていたためシンクに捨てたのだった。
「X線探知機で探索する以前の問題だぞ！」とクレームを出そうと思ったが、急な仕事が入って結局言えないまま時間が経ってしまった。結果───腐ってしまったのだが。

「というか、なんで購入の時点で気付かなかったんだろう」

　シンクに無造作に置かれた腐った豚肉は発泡トレーに入ったままだ。これを品出しするスーパーもおかしいが、購入したこちらもどう考えてもおかしい。なぜなら、一見(いっけん)しただけでも豚肉と同量程度の折れた骨が入っているのがわかるからだ。

「───と、とりあえず、袋……袋に入れないと臭くてたまらん」

　胃の中のものがせり上がり、思わず口を手でふさいだ。そして、匂いが外に漏れないように何重にも袋に包み、きつく結んだ。１つ目の袋に入れる際に右手が豚肉に触れてしまったのか、納豆の粘りのような糸が豚肉と手とをつないだ。
　僕はひとまず手を洗うと、換気をするためにキッチン横の小さな窓とリビングの窓を開けた。風の通り道が出来、新鮮な空気がやさしく入る。それは肌を刺すような、冷たい空気だった。

「燃えるごみの日は───っと」

　ごみ出しカレンダーを確認すると、今日がその日のようだ。生ごみの件もあるし、食事を済ませてからごみ出しをすることにした。
　───いや、むしろ臭いからゴミを先に出した方がいいのか？　一瞬悩んだが、それよりも妻と息子を起こす方が先決だろう。

「おーい、もう６時過ぎたぞー！」

　リビングから廊下にかけて顔を出し、寝室に向かって大きく声を出した。
　しかし、返事がない。つまり───寝ているのか。

「おーい！　朝だよー！」

　もう一度声をかけるが、やはり返事はなかった。

「……やれやれ」

　いつも妻はこんな気持ちなのだろう。
「何度起こしても、あなたは起きない」とよく皮肉を言われていたのを思い出した。事実、妻と息子がリビングで既に食事している最中に、起き抜けの顔で僕が欠伸をしながら階段を降りてくることの方が多かったのだ。
　僕は廊下に出て、直接起こすために寝室に向かうことにした。
　リビングから廊下に出ると、目の前は玄関だ。左手前にエレベーター入り口、その場から左手に曲がって突き当たりが階段、突き当たり左が浴室、突き当たり右がトイレになっている。ちなみに、リビングをさらに奥に進めば和室だ。
　階段前で駄目押しでもう一度２人を呼ぶが、結果は同じだった。
　らせん状に続く階段を上がり、２階に着いた。
　目の前には物置と化している部屋、曲がって突き当たりには寝室、寝室の隣に子供部屋がある。
　ただ、まだ息子は３歳なので子供部屋で１人で遊ばせずに、リビングで家族と過ごすことを心がけている。
　突き当たりにある寝室まで歩いてドアレバーに手を掛け、下に回して扉を開いた。
　しかし───寝室に妻と息子の姿はなかった。

「───えっ？」

　僕はしばらく、呆然として身じろぎもしない寝室を眺めた。寝ているはずの２人がいない───もしかしたらクローゼットの中に隠れているのかも、と様々な思考が巡った。
　しかし───寝室をいくら探してもに妻と息子の姿はなかった。隣の子供部屋、物置部屋、トイレ、浴室、リビング、和室───すべての部屋を探したが、見つかることはなかった。

「いや、もしかしたら、ほら……僕が起きるより前に保育園に行ったのかも───」

　まるで誰かに話しかけるかのように、自分で自分に言葉を投げかける。
　しかし、現実的にありえるだろうか。僕が目覚めたのは６時前。妻の性格上、息子に朝食を与えず、起床してすぐ保育園に送る、というのは考えづらい。
　それに、保育園の園児受け入れは７時からだ。歩いて１０分程度の場所に、僕への書き置きなしで６時前に妻と息子だけで家を出る、というのも考えづらい。なにか急ぎの用事───たとえば息子が急に発作を起こして救急病院に行かなくてはならないのなら、僕を無理矢理にでも起こしてそれを伝えるはずだ。

「……そもそも昨日、帰宅していないのかもな」

　妻の実家は車で２０分くらいの場所にあったため、週末に実家に泊まりに行くことはよくあった。
　僕が昨日仕事から帰るのが遅くなるのは知っていただろうし、もしかしたら実家に帰り、そこから息子を送るつもりなのかもしれない。
　胸を塞いでいた不安が薄れると、気が付けばほっと吐息を漏らしていた。

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痕跡器官／１